00007列車の中でゴキブリと遭遇したら。20180731-20180803

 いつものように列車の中で、つり革につかまっている。

 夜の遅めの時間帯だから、満員ではないけれど、座席に空席はなく、各つり革には誰かがぶら下がっている。

 大きな乗換駅で乗客が入れ替わって、列車が再び走りだす。

 すると背後で、人が移動していく気配がする。

 一人、ではない。

 数人が、一斉に。

 思わず、振り返る。

 そこだけ、座席がすっぽり空席だ。

 いや、一人だけ、いる。

 取り残された感じだ。

 二〇代の女性が、座席から腰を浮かして、いまにも移動しようとしている。

 移動というより、逃走を思わせるおびえた表情だ。

 誰かが車内で嘔吐でもしたのだろうか。

 それらしいものは通路にはない。

 女性の視線は、座席の一メートルほど先の通路の表面に注がれている。

 何かがいる。

 大きな物ではない。

 ゴキブリだ。

 このゴキブリが原因だ。

 中腰の女性はやっと立ち上がると、ゴキブリに最後の一瞥を送ると、ゴキブリの存在する地点から大きく迂回して、隣の車両に移動していく。

 周囲に人がいなくなったゴキブリは、通路上の探索に余念がない。

 一〇センチほど進んでは止まり、また一〇センチほど進む。

 止まったあと、今度は方向を転換する。

 ゴキブリの活動範囲、ならびに進行方向と予想されるあたりの座席は、見事に空席になっている。

 いや。

 ゴキブリがたどり着いた先に、三〇代の男性が一人、座席にとどまっている。

 ゴキブリに気づいていないわけではない。

 ゴキブリの動きを、目が追っている。

 昨日のことだ。

 繁華街の横断歩道で信号を待っていた。

 目の前の歩道上を、ゴキブリが動き回っていた。

 同じく信号待ちをしていた三〇代の男性と二〇代の女性の二人組の、男性のほうが靴音も高らかに、ゴキブリを踏み付けた。

「やだ」と苦笑して、女性が男性の背中を軽くたたいた。

 自分の住居の中でゴキブリに遭遇したら、たたきつぶすか踏み付けるか殺虫剤で仕留めるか、臨機応変に対処する。

 問題は、屋外で遭遇した場合だ。

 昨日の男性のように、踏み付けるのは、過剰反応だ。

 もっとも、女性と一緒にいなかったら、この男性も踏み付けたりはしなかっただろう。

 そのまま、やり過ごしたに違いない。

「ゴキブリを平気で踏み付けることができる」イコール「演技された男らしさ」というわけだ。

 ゴキブリは、気づかれないだけで、案外、都会の路上を徘徊している。

 この前も、やはり信号待ちの交差点で、手元の携帯端末に気を取られている女性の白いハイヒールの靴にまとわりついていた。

 靴にまとわりつくのは、ゴキブリだけの特権ではない。

 一か月くらい前、地下鉄の駅ホームで、女性の靴に、小動物がまとわりついていた。

 丸々と太って、黒光りするネズミだ。

 尻尾も入れると三〇センチは超しそうだ。

 そのネズミが、女性の背後から迫ってきて、靴のあたりを探っている。

 地下鉄がホームに入ってきて、女性は幸か不幸かネズミに気づくことなく、乗車した。

 目の前の車内の三〇代の男性だ。

 どうするか。

 踏み付けるか。

 それとも、逃げるのか。

 列車が減速して、駅に入る。

 ゴキブリの近辺には降りる客はいない。

 男女の大学生の集団が乗り込んでくる。

 ゴキブリの運命は、この集団に委ねられた。

 結末を見届けることができないのは残念だ。

「降ります」と言って、大学生の集団をかき分けて、下車する。